Nothing to gain

得るものは何もない。

【雑記】あの日のこと

3月11日。

9年前のあの日から、普通の日としては過ごせなくなってしまった。

この日が近づく度、あの出来事の名称を目にする度、

断片的に脳裏に浮かんでいたあの日のことを少し纏めようかと思う。

あの頃は前年の12月に前職を退職していて、求職活動の真っ只中。

あの日も既に日課となっていた地元のハローワークに出掛けていた。

発生時刻の14時46分。

web検索では目ぼしい求人は見当たらず、廊下の掲示板に貼られた求人情報を更に確認していたら、

不意に隣りにいた若い女性から「地震ですよね?」と声を掛けられた。

気付けば確かに揺れている。

しかもなかなかの大きさ。

女性の肩越しにエレベーターが見えていて、そこに乗り込もうとしていた職員さんが2人躊躇していた。

 

この数日前に宮城県の方を震源とする大きめの地震があったことから、

またその規模の地震が起きたのかと、その時はまだそんなふうに考えていた。

 

しかし、揺れは収まる気配はなくますます強くなる。

ちょっと只事ではないと思い、先ほどの女性と一緒につい近くの出入り口から外に出た。

地震の際、まだ揺れが残る中で不用意に外に出るのは本当は危険)

出た先はハローワークの駐車場。

多く停まっていた車の一台から揺れに反応したのかひたすら大きなアラーム音が鳴っていて辺りに響いていた。

見上げると建物の上階に設置されたブラインドが大きく波打っており、

また、道路を隔てた向こう側に立っているマンションも上部が揺れているのが肉眼でも分かった。

これは日常に起きている「少し大きめの地震ではない」と漸く認識。

相変わらず鳴り響く車のアラーム音が不安を更に煽った。

 

揺れが少し治まり始めた頃、ケータイでニュースを確認したらしき人が「また宮城の方らしい」と話しているのが聞こえた。

あの数日前の地震は前触れだったのか、そんなことを考えながら女性と少し話をした。

聞くところによると、彼女は結婚を機にこちらに出てきたらしいのだが、実家はなんと宮城だという。

心配だから直ぐに連絡をしてみるという彼女とご家族の無事を祈り、帰宅することにした。

彼女のご家族と実家は大きな被害はなかっただろうか、と未だに気になっている。

 

15分ほど歩く最寄りの駅に向かっていると、再び揺れが来た。

頭上の看板が大きく揺れているのが目に入り、近くの店舗から店員さんがお客を誘導して出てくるところだったので、

一緒に近くの広場へ避難した。

そこで暫く待機しているとまたもや揺れが治まったので、ともかく急ぎ駅に向かった。

 

駅では既に電車が止まり、改札の外に人が溢れていた。

少し経てば回復するのではないかと思い、しばらく其処で待つことに。

その時、駅に設置されたテレビがあの大津波を映し出しているの目にした。

その場にいた人たちが皆、テレビを無言で見ていた。

これは今、この国で起きていることなのか?俄かには信じられなかった。

そのうち、駅員さんより本日中の復旧は恐らく無理だとアナウンス。

足が絶たれたことで自宅に電話をするも、父親はこれから母親を迎えに行くため此方には来られないとのことだったので、

求職中の身の上で金銭が乏しかったが、タクシーに乗ることにした。

しかしもはや長蛇の列。

いよいよもって交通手段を失ってしまったため、徒歩での帰宅を試みることにした。

 

なお、携帯電話はこのあと一切不通になる。

あのとき自宅に通じたのが奇跡だったのではないかと今では思う。

 

徒歩で帰るにはほぼ線路沿いに作られた国道をひたすら歩くしかない。

何が起きているのか詳細には分からぬものの、ともかく何か想像を超えることが起きているとだけ感じて歩いた。

道沿いにある店舗は軒並み臨時閉店していて、コンビニは人でごった返している。

駅で待っている間にすっかり身体が冷えてしまったので、途中でトイレだけ借りた。

何か温かいものでも飲みたかったが、このあとどれぐらい歩くのかも分からないなか、

またトイレに行きたくなることを危惧して我慢した。

歩いている間に何度か携帯電話で通信を試してみると、数回に1回は通じ、

そのたびに安否を気遣う遠方の友人からのメールが入った。

その殆どが関西方面の人たちで、やはりあの大震災の記憶が思い出されたからなのかもしれない。

 

約2時間ほど歩くと、居住地域の街並みが見えてきた。

徒歩での帰宅を考えたときはどれだけの時間が掛かるのかと心配したが、

思いの外早く着くことが出来たと思う。

後日、都内に住み通勤している友人はだいぶ時間を掛けて徒歩で帰宅したと聞いたので、

休職中で地元にいたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。

 

そこから更に30分〜40分ほど掛けて自宅に帰り着いた。

既に両親も帰宅しており、一先ず安心して自室に戻るとあらゆる物が散乱し酷い有様だった。

この中で直ぐに目に入ってのは床に投げ出されたことで大きく傷がついた嵐のマキシシングルだった。

曲は「Beautiful days」。

両親を殺された3兄妹の哀しき運命を描いたドラマ「流星の絆」の主題歌となった曲。

多くの人の「日々」が失われ哀しみが溢れた時間についた傷。

数あるCDのなかでこの曲についたことがなんだか強く強く印象に残った。

 

駅でのテレビで見て以降、一切情報が仕入れられなかったので、ともかく現状を知りたくテレビを付けた。

津波が襲い海かと見紛うような街並みが映し出され、

多くの遺体が発見されている、その数は200体ほどにのぼる、というアナウンサーの言葉に強いショックを受けた。

この数時間で一体何が起こってしまったのか、なんでこんなことになってしまっているのか、

ともかく訳が分からなかった。

そのあとも目や耳を塞ぎたくなるような情報ばかりが流れ、あの日は何一つ現実だと捉えることができなかった。

 

夜は絶え間ない余震に殆ど眠ることが出来ず、

ようやく通信を取り戻しつつあった携帯電話で見たSNSで見知ったアカウントを目にし、少し落ち着いたのを覚えている。

 

▫️▫️▫️

 

これが、簡単ではあるけど、あの日経験した出来事。

被災地で被災された方、東京でも帰宅困難者となり不安な夜を過ごした方、

そのような方々に比べれば、なんてことない出来事である。

けれど生まれてから初めて身を以て経験した大きな震災であり、やはり単なる過去のことには出来ない。

今でも、あのテレビを見た駅に行くと当時の混雑と目に入った映像とがフラッシュバックする。

 

恐らくこの記憶はずっと持っているのだろうし、

そして忘れてはいけないことだと思っている。

 

最後になってしまいましたが。

この大震災で喪われた多くの命に心よりご冥福をお祈りいたします。

また、今でも大変な生活をされている方々に少しでも早く安心できる日々が戻りますように。